寄稿

ケンブリッジ・クロイスターズ・ チューター

里 見 悦 郎 

 午後の2時を過ぎようとしていた。 四方を畑に取り囲まれ、 その畑の中にトラクターが一台無造作に放置されたまま残っていた。 私は心の中で一言 「エ!嘘だろう」 と呟いた。 英国の中世都市チェスターからわずか2両の電車に乗り5時間あまり掛けてケンブリッジに到着した私には、 近代都市の真ん中にある青山学院とくらべそれはあまりに田舎だった。 駅舎を出た私は、 駅前でタクシーを拾った。 「St. John's College. Please」 と運転手に告げたが、 発音が悪いらしく、 もう一度、 繰り返しやっと通じた。 駅からまっすぐ伸びる通りを5分ほど走る。 マークス・アンド・スペンサーなどのスーパーがあり意外と開けていた。

 タクシーはセント・ジョンズ・コレッジの正門前で止まった。 ここから奥には入れないらしい。 運転手は鋼鉄製の門の中を指差し、 ポーターズ・ロッジはこの奥だと教えてくれる。 ショルダーバッグ1個とディバックを担ぎ、 肩にまで掛かる長髪の私はポーターと呼ばれる守衛の詰所に入り、 コレッジから受け取った手紙の写しを渡した。 厳めしい顔つきをしたポーターの右手にはマンガのポパイのような刺青があり 「ケンブリッジはすごい守衛がいるんだな」 と内心驚いた。 彼はフェロー名簿を捲りながら 「Dr. Satomi, Dr. Satomi」 と2、 3回呟き私の名前を捜した。 そして、 「Oh. Yes!」 と呟くと 「学舎」 と訳される College の個室の鍵を金庫から1つ取り出すと私に手渡した。 「17番」 これが私の個室兼研究室だ。 「このほかに何か手続きがあるのか」 と聞くと 「無い」 という。 何とも簡単なものだ。 「ポーターは皆あなたの顔を知っているから、 気にしなくていい」 とのこと、 いささか簡単すぎてつまらない。

 ロシアのスポーツの研究を志してモスクワ大学に留学してから20年が去った。 日本では 「スポーツ」 の研究をするということは体育実技の教員となることで、 専門の講義を開くことは無い。 1991年12月突然消滅したソビエト、 現在のロシアのスポーツの現代史をロシア人研究者よりも早く日本人の私がまとめ昨年末出版した。 その講義をしてくれとの依頼を受け、 私はこのケンブリッジ大学、 セント・ジョンズ・コレッジに着任したのだった。 専任のポストの無い私は依頼があれば世界中どこへでも翔んで行き喜んで講義をすることにしている。

 ケンブリッジとオックスフォードは中世に修道院に付属し学舎が作られ、 研究者と学生が共同生活を営む、 特に、 チューターと呼ばれる指導教員が学生を個別指導し、 育てる独特の教育制度を形成した。 私はこのチューターとして生徒に専門のロシア史と近代スポーツ史を教えるのだ。

 私に当てがわれた17号室は寝室兼研究室、 台所、 リビング、 そして、 バスとトイレである。 寝室兼研究室は12畳ぐらいの広さ、 ベット兼用のソファに巨大な机と頭まですっぽり納まってしまいそうな椅子、 本箱、 洋服ダンスがある。 よく見るとこの机は暖炉の口を塞ぐように置かれている。 天井に届きそうな窓があり、 白いカーテンの向こうには紫の背の高い花が10本ほど風にそよいでいた。

 今晩の夕食の用意のため、 まず食料品を求めて町中に出る。 とにかく若い外国人学生が多い。 聞いてみると皆、 夏の英語研修に来た留学生とのことだ。 スーパーに入ったがこの語学留学生に揉まれて、 もうこれだけで疲れた。 セント・ジョンの正門の近くの酒屋 「Bottoms-Up」 でエイルとビター、 それに安い白ワインを買って家に戻った。

 夕食を作っていると一人の女子学生と会う、 名前を Immi Voltonen といった。 フィンランドからの留学生とのことだ。 自己紹介をして、 夕食を一緒に取り別れた。 8時すぎ、 ドアをノックされる。 開けると先ほどの学生イミである。 彼女は 「母国の隣のロシアに以前から関心があったが、 ロシア史専門のチューターがいなかったので勉強できなかった。 是非先生に付いて学びたい」 という。 私は 「日本人で1週間ほどで帰らなくてはならないが良いのか」 と聞くと、 彼女は私が5, 6年滞在する新任チューターと勘違いしていたらしい。 しかし、 短い期間でも良いという。 このようにして私はロシア研究20年目にして初めての弟子を持った。

 私とイミとの授業はその夜9時過ぎから始まった。 イミが質問し、 それに私が答えるという形で一対一の講義だ。 「ロシアにとってペレストロイカとは何であったのか?」、 「社会主義は崩壊したのか?」、 「このロシアの金融危機の原因は何か?」、 「ゴルバチョフの歴史的役割とは?」。 イミは次から次へと関心のある問題について質問してきた。 思いつくままの漠然とした質問は、 次第に彼女の最も関心をもっている問題へと何時の間にかまとまり、 その焦点は定まって行った。 イミと私のチュータリングは深夜1時まで続き、 その日は終わった。

 翌朝、 イミはティを入れていた。 挨拶し、 「今日大学での勉強が終わったら、 講義を受けたい」 とのことだった。 「私は何時でもかまわない」 と答え、 別れた。 私はセント・ジョンの隣のトリニテイ・コレッジとキングズ・コレッジを通過し、 大学図書館へ行き、 ケンブリッジでのロシアスポーツ研究の先行研究を調べたが、 全く無いことを知り愕然とする。 さらに、 ケンブリッジの女子教育に関する資料を捜しに大学出版会へ行く。 ケンブリッジを正規で女子学生が卒業してからまだ30年と経っていないのである。 英国の女子高等教育史研究は発展の途上にあるのだ。

 午後自宅研究室に戻り、 集めてきたケンブリッジの女子教育史資料に目を通しているとドアがノックされた。 開けてみるとイミがいた。 しばらくして来ても良いかという。 午後2時から彼女のためのチュータリングを始める。 彼女の質問を私が答え、 さらに、 今度は私が彼女はどう思うか?と質問する講義へと移った。 社会主義から、 ロシアの民主化についてその議論の焦点は移った。 途中、 ティを入れて休憩をしてから、 さらに講義は続いた。 7時過ぎ、 夕食を取り、 さらに、 講義は続いた。 イミの貪欲なほどの究学心に対してできるだけのことを教えたかった。 僅か、 2日目の講義であるが、 私はイミとのチュータリングを通じて確かな手応えを感じ始めていた。 ケンブリッジの学生にとってチューターとは一冊の本なのである。 それを読み尽くすまで質問し、 さらに、 熟考し、 分からなければ、 また訪問し、 質問する。 図書館も貴重で、 文献も僅かな写本しかなかった中世に修道士が助修道士を指導し、 学問を伝えたようにその伝統はチューターという制度の中に生きているのを実感した。

 夜8時、 イミが突然、 「先生散歩行きましょう。 夜のケンブリッジのコレッジは美しいんですよ」 と勧める。 9月のケンブリッジは日本の晩秋のようだ。 セーターを着込み出かける。 イミは元々クレア・コレッジの学生でそこで3年間学んだこと、 コレッジの古い木製のドアは16世紀のものがまだ使われていることを実物を見せて教えてくれた。 そして彼女の指導教授はダーウィンの子孫の民族学の先生であることなど。 そして、 彼女はこのケム川に掛かる橋で一番美しいのはセント・ジョンのため息橋ではなくこのクレア・コレッジの橋だと人影の途切れ、 街灯が点々と暗闇の中に浮かび上がる夜空の下、 月明かりに照らし出された清楚なクレア・コレッジの橋を私に見せたかったのだ。 事実、 彼女がいうようにその橋は美しかった。 私とイミはコレッジに続くクロイスターズ (回廊) を巡り、 学問の楽しさ、 研究する人生の素晴らしさを語り合い、 10時過ぎコレッジへと戻り別れた。

 翌日の昼、 イミは私を訪ねて来た。 彼女は今日、 故郷のヘルシンキに戻るのだそうだ。 タクシーはすでにコレッジの正面に止められていた。 タクシーの中から彼女は何時までも手を振っていた。 私は彼女を乗せたそのタクシーが視界から消えるまで何時までも見つめていた。 それは私の初めての弟子との別れだった。

(女子短期大学兼任講師 比較スポーツ文化論)

 

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